『村絵図』と地図にみる吉根の土地利用と水

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『村絵図』と地図にみる吉根の土地利用と水

志段味の自然と歴史に親しむ会・編集室

 今年(1986年――編集注)は、吉根に特定土地区画整理組合が設立されて3年度目になります。今年度から、荒造成の工事が始まるということで、具体的には、吉根地区の「全面作止め」ということが昨年から言われていました。しかし、吉根地区の水利組合や農家の方々が意見を出され、今年も例年のように吉根の田んぼではもうすぐ「田植え」が始まるということです。
 地元ではこうした色々な動きもありますが、親しむ会では吉根のシンボルとも言える「神明用水」を中心に据えて、吉根の土地利用と水ということを歴史的に少し考えてみました。(編集室)

 

●神明用水以前(江戸時代)

 天保12年(1841)の『村絵図』を見ると、当時の土地利用の基本的状況は、東から、

  1. 山塊、
  2. 山麓および段丘上に散在する集落、
  3. 集落の西に面して南北に長く続く「田」、
  4. 「田」の西側に沿って同じく南北に長く続く「畑」(一部、集落)、
  5. 「畑」の北側と西側の「砂入」、
  6. 庄内川、

という形になっている。

 こうした土地利用の状況は、北から南へ流下する庄内川の形成した自然堤防(高燥地)が「畑」と集落に、そして後背湿地(湿潤地)が「田」に利用されたことをはっきりと示している。以下それぞれの土地を見ていくことにする。

 「田」
 まず、この「田」にどのような導水がなされているかを『村絵図』に見ると、おおむね北1/3を「にこり池」から、そして南2/3を「釜ヶ洞池」からの導水にかかっていることがわかる。このうち「釜ヶ洞池」からは3つの導水がなされており、一番北のものは西へ直進し畑の手前で、「にこり池」と「砂入」からの2本の流れと合流し、やや南下したのち西へ折れ「砂入」で消えている。中程のものは集落の外を短く巡っている。そして、一番南のものは幾度か曲折し、途中で「北洞池」のやや南からの導水と合流し、最終的に村の一番南で庄内川に合流している。
 このことは、寛文末年(1672年頃)の『寛文村々覚書』で吉根の「田」が「雨池懸り」とされていることと符号する。
 江戸時代の吉根の雨池については、

1672年 柳洞池、木持沢池、武兵池、濁池、釜池上下、北洞池(6ヶ所)
1822年 北洞池、釜ヶ桐池并下池、木持池、上池、新池、下池、三助前池、濁池、三タナシ池(8ヶ所)
1841年 木持池(2ヶ所)、平池、にこり池、三助前池、釜ヶ洞池、同上池、北洞池(8ヶ所)

と、約170年の間に名称・存在に消長がある。しかし、3時期に一貫して見られるものは「北洞池」、「釜池上下=釜ヶ洞池(上下)」、「濁池」=「にこり池」、「木持沢池」=「木持池」があり、また2時期にわたるものには「三助前池」がある。このことは、吉根の主な水田経営に直接かかわる池には大きな変動がなかったことを示すものと思われる。なお、このうち木持池は『村絵図』を見る限り水系が異なり、村の東境「内ふだい」の集落の東を流れて庄内川に注いでおり、吉根の西側の水田の水懸りには影響していない。

 「畑」
 次に「畑」の一帯である。これが庄内川の自然堤防上に形成されたものであることは先に述べたが、自然堤防は一般的に集落の立地に適した場所でもあり、吉根でもこの場所に集落が形成されている。これは後に見るように、現在も存在する「下江」の集落であるが、このことからこの集落の北にある畑から、村の一番南端までは一続きの地形と見てよい。また、水田地帯でもこの自然堤防に隣接する箇所に何箇所か畑が見られるが、これらは周囲の土地の状況から本来はこの自然堤防の一部であったものと考えられる。
 なお、自然堤防上に集落が立地することは、『村絵図』に見られる家々の部分だけではなく、ほかに「寺畑」「元宮」と記された「畑」のあることからも、『村絵図』の描かれた以前において、自然堤防上の集落は広範囲だったことが想定される。ちなみに「寺畑」は「往昔此寺ハ大川ノ辺リニアリシカ、元禄四未年洪水ニテ境内決壊セシニヨリ、翌五申年今ノ地へ寺ヲ引移セリ」(『尾張徇行記』)と記録のある観音寺の、また「元宮」は吉根の氏神である「八幡神社」の故地である。「元宮」のすぐ南の一帯の水田は「宮田」と記されてもいる。

 「砂入」
 『村絵図』に見える「砂入」は北辺と西辺、南端の用水の南側の一部である。「砂入」は洪水によって砂や礫がもたらされた地帯のことであるが、記録にある吉根の洪水は、

  • 元禄4年(1691年)「…元禄四未年洪水ニテ境内決壊セシニヨリ、…」、
  • 明和4年(1767年)「…明和四亥年洪水ニテ決壊ス」、
  • 以降4回(1767~1822)「此村ハ明和四亥年ヨリ四タヒ河決ノ害アリテ、凡ソ田十一町二反余砂礫押入リ不毛ノ地トナル」、

である。元禄以前の洪水の記録とその被害の程度はわからないが、この頃の洪水で吉根の集落が高い場所へ移っているようである。観音寺と竜泉寺領の大半が移転しているのもこの頃である。当時の人々にとって、元禄頃までの洪水が吉根の「生活空間」を侵したものと意識されていたとすれば(実際には耕地への被害もあったと思われるが)、明和の頃の洪水は吉根の「生産空間」を侵したものと意識されていたのかも知れない。いずれにしても明和以後4回の洪水での田11町2反への被害は、吉根の田が18町1反5畝22歩(寛文期)であることから見ると相当大きなものであったことがわかる。洪水以後「作リ土ヲ砂入地ヘクリカヘシトナシ」ているので、『村絵図』の描かれた頃(1841年)には「砂入地」は減っているものと思われる。
 なお、洪水を防ぐこの時期の庄内川の堤防は『村絵図』を見る限り村の北側の「堤」と描かれた部分にしかなく、『寛文村々覚書』に記された「玉野川筋、当村堤弐百七拾間」という長さも、この『村絵図』の「堤」を現在の地図上で復元した長さにだいたい一致している。恐らく、洪水の度にこの「堤」が切れて、「畑」や集落のある自然堤防で流れが二分されて、この西側と東側の「田」に流れ込んだであろうことが『村絵図』から読みとれる。

 

●神明用水以後(明治以降)

 では、明治9年に「神明用水」が完成したのちはどのように土地利用が変わったのであろうか。明治21年の地籍図から用水路を抽出したのが第2図である。これと先に見た村『村絵図』と大きく違っている点は、2つある。

 1つは当然のことであるが「神明用水」の登場である。これによって、先に見た『村絵図』の、自然堤防上の「畑」は水田に変わった。神明用水は、この自然堤防上のほぼ中心部分を、極めて畿何的かつ人工的な流路を描いて南下している。
 もう1つは、釜ヶ洞池からの導水路が、新たに平池からの導水路が設けられそれと直接結ばれている点である。これは、釜ヶ洞池の水量が落ちたことによるのであろうか。既にこの時期釜ヶ洞池の下方の池は消滅してしまっている。
 そして現在では、濁り池が市に売却され、埋め立てられるに至っている。
 こうして、近世において村の生命線であった。濁り池と釜ヶ洞池からの導水は、近代になって、神明用水と平池からの導水にその地位を譲っていったものと考えられる。

 

●神明用水の性格と意義

 神明用水設置に至る経過、或いは工事方法等については、『神明用水碑』に記されており、既にこの紹介もなされているので、これを参考にしながら、ここでは神明用水が、用水技術史、吉根の歴史、日本史の中でどのような位置を占めるのか、または占めないのか、について見てみたい。

 1.
 神明用水は、周知のように庄内川に蛇籠や沈礁による堰を設け、高山市の鉱山職人に依頼して掘り抜いたトンネルに水を通して、そこからわずかな土地の高低を利用して導流した用水である。この様子には、日本の用水技術の典型が縮図になって詰めこまれている。
 第1に、わずかな土地の高低を利用して導流させる点に、「扇状地型用水」と言われる「戦国期から徳川期の前期にかけて数多く作られた用水施設の特徴」が見られる。これは、「重力灌漑方式(自然流下方式)の一つの典型」であり、基本的に重力以外の何らのエネルギーの追加なしに、稲作に不可欠の水を田に獲得できる、極めて効率的な機能を持ったものである。
 そして第2に、こうした「扇状地型用水」が可能となった一般的条件に「戦国期における築城技術ならびに鉱山技術の発展との関わり」が示唆されているが、神明用水でも、明確に高山の鉱山職人の技術が前提条件になっている。そして、鉱山職人を動員してまでして神明社の山の下にトンネルを設けて水を取り入れるというアイデアは、恐らく吉根の農民が過去の洪水の経験から学び、それを模倣したものと考えられる。
 更に第3には、取水方式に蛇籠や沈礁を用いた方式は、全国の大河川で用いられてきた方式であり、これも基本的に戦国期ないし江戸時代前期の開設当初の姿でもあったのである。
 このようにして神明用水は、中世末から近世前期にかけて形成された用水技術を基本に用いて作られたものであった。

 2.
 こうした治水灌漑の機運は、恐らく江戸時代を通じ、庄内川沿岸の農民の共通の課題であったことは想像に難くない。事実、隣村の下志段味村では、早く「享保七年(1722)村民相謀り上志段味寺裏地内の庄内川に、伏越樋管を設け、約五十町歩の水田を灌漑して」いる。勿論、この下志段味の天白用水と後の吉根神明用水とは、その設けられた結果を見ると、その用水路の通る地形条件、またそれに要する工事技術等の困難度に相違が見られる。では、なぜ吉根の治水灌漑事業が明治期になって初めて可能となったのかについて考えてみたい。
 まず最初に、江戸時代になぜ下志段味では用水事業ができて、吉根ではできなかったのかについて考えてみたが、これについては不明である。ある日突然にして用水の必要が出てきたとは考えがたく、この問題について今回は保留とせざるを得ない。従って以後は主要に、明治になってからの状況を見ていくことになる。
 さて、明治前期という時期は、愛知県一帯で用排水改良事業が非常に盛んになった時期である。入鹿池の再興(明治元年)、黒川開削(明治9年)、立田輪中の排水と明治用水の起工(明治12年)、枝下用水の起工(明治15年)、木津用水の改修(明治16年)など、新規の大事業が見られ、全国的にもこの時期の「中核的地域」と評されるほどである。「木曽川や矢作川などに沖積される愛知地方も、江戸時代に親藩や小藩、旗本領などが混在し、統一的な灌漑事業を行ないえなかったが、明治以後の県域統合によって、押さえられた改良意欲が高揚したことの反映であろう」とされているのであるが、神明用水も正にこの日本史的なうねりの中に位置付いていたようである。
 このことは『神明用水碑』の「…時ノ県令安場保和君ノ勤説ニ従リ…」に見られる安場保和という人に即して見ても明らかである。安場が愛知県令に新任するのが明治8年である。前任地の福島県では、明治初期最大の国営開発事業である安積疏水の開削計画(開墾約2000町、用水補給3181町)が進められていた(実施は明治12年)。そして、安場が愛知県令に着任すると同時に、先に見たような愛知県でも大規模な用排水事業が具体化している。例えば、それまで難航を極めていた明治用水計画に対して、県の支援はむしろ積極的になり、この事業は「民営」であったものの、以後は県の独走とも言える強行策で工事は推進されている。明らかにこの安場保和というその人が、明治政府の殖産興業政策と士族授産の動きを体現していたのである。
 明治8年着工、翌9年竣工という神明用水は、文字通り当時の状況をにらんだ、そしてそれに即した動きであり、この歴史的状況を背景にして実現したものと言えるのである。

 3.
 さて、神明用水ができた結果、田となった土地の面積は、『神明用水碑』によると「五十余町歩ニ及フ」とあり、また、「二十町もなかった田が七十町にも増え」という伝聞がある。(後者は恐らく20町+50町の計算で出てきた数字であると思われる。)
 ところでの吉根の畑は13町5反4歩で、これのほとんどが自然堤防上の畑だったと思われるが、これが全部水田になったとすると、既に田である18町1反5畝22歩と合計して31町6反5畝26歩となる。しかし、この数字は先に見た数字と大きな隔たりがある。そこで現在の吉根の土地利用面積を見てみると、台帳地籍で田が62.61haである。台帳作成時が不明であるが、このうちには今検討している地域以外の田もあるであろうし、また台帳記載時に既に田でなくなっているものもあると思われるが、これらを換算しても60ha前後であることに大きな変更はないものと思われる。従って31町6反5畝26歩が約31.4haであるから、恐らくはこれよりは広く、むしろ50町(約49.6ha)或いは70町(約69.5ha)の数字に近かったものと推測される。こうして見てくると神明用水設置に伴って、『村絵図』では「砂入」だった地帯や、更に村の西側に設けられた堤防までの間の土地も安定して、耕地全体が一挙に拡大したことが考えられる。

 

●『村絵図』の復元

 さて、最後になったが、『村絵図』に記載された状況を現在の地図に写したものが第3図である。

 この図は、まず明治期の用水路から、『村絵図』に見られた用水路に対応すると思われるものを抽出した。だいたい当時の用水路が明治の用水路で確認できたと考えている。そして、これと、今回は全面的に図化を省略したが、古道との相対的な位置関係を考慮して、『村絵図』での土地利用の状況を復元したものである。あくまで想像復元図なので細部には異同もあり、以下に注を列記する。

  • 西と北の「砂入」の範囲、および「畑」の西側の境界は動くかも知れない。
  • 「畑」の東側と「田」の西と東の境界はだいたい復元できていると思う。
  • 「田」の中の「畑」2箇所のうち北の方は現在も畑が分布しており(現状はもう少し広い)間違いなさそうであるが、南の方は「『村絵図』上だとこの辺りになるであろう」ということで記したものである。その他の小さい「畑」は省略した。
  • 「元宮」の地を図のような位置にあてたが、或いはそのすぐ南側の現在家のある地かも知れない。しかし、この場合用水路はこの家の南側を通っていたことになるが、明治の地籍図ではこのことは確認できなかった。ここでは、「元宮」に比定した区画がとびだしているにもかかわらず字山沖であることに注目して、これに何らかの意味があるものとして図のように考えた。
  • 村の北から西にまわっている水路は、今の新川用水かと思われるが、現状の新川用水は、鉄塔の手前で南下しており、この屈折のしかたには人工的な匂いがする。この図では、更に西の「山の神」の手前までのびている水路を元のものと考え、その先端から南下していたものと想定した。
  • 全体的に『村絵図』の周囲に行けば行くほど正確さが減るようであるため、復元図でもこの傾向はまぬがれない。特に至来川周辺と濁り池以東は省略した。

 

●おわりに

 以上、今回は机上での作業に終始し、従って実際とは違った評価をしている箇所もあろうかと思われる。しかし、今回の作業の結果感じることは、吉根地域は『村絵図』の作られた頃、すなわち、今から145年前の様子を非常によく残しているということである。勿論変わった点もいくつかあるが、それらは復元が不可能というところまで変わってはいない。田んぼ1枚1枚、畑1枚1枚、そして畔道、用水1つ1つに歴史が今も深く息づいているのである。それは緑区鳴海の街道宿や東区白壁町の武家屋敷、そしてかの名古屋城とは異なる、これまで一番軽んじられてきた近世農村の歴史である。なお、今後、更に詳しいお話を地元の方々から提供していただきながら、細部について修正を加えて行く必要があると考えている。

 

【参考にした文献】

  • 愛知県守山市1963『守山市史』
  • 玉城哲・旗手勲1974『平凡社選書30 風土 大地と人間の歴史』――「神明用水の意義と性格」の1、2は同書から引用した。
  • 名古屋市博物館1984『守山の遺跡と遺物』
  • 守山郷土史研究会1986『共同研究 守山の石碑(その一)―記念碑・顕彰碑・句碑・道標他―』

出典:『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第5号、志段味の自然と歴史に親しむ会世話人会、1986年6月1日、31-37ページ。

注:本稿は、世話人(当時)の犬塚康博名古屋考古学研究所)氏が、「編集室」の筆名で書いたノートです。転載にあたり、あきらかな誤字脱字ならびに誤記を訂正しました。それ以外は原文のままです。トップの写真は新たに加えました。

写真説明:神明用水が、神明社の立つ段丘下のトンネルを抜けて、水田地帯へ水を送り出してゆくところ。写真左端に県道篠木・尾張旭線、正面中央右遠くに王子製紙の煙突、右端に庄内川堤防道路が見える。吉根橋南詰の堤防上から、1986年5月、犬塚氏撮影。下は、ほぼ同じ撮影地点から見た、Google マップ ストリートビュー(2017年8月撮影)。

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