志段味の爆撃のこと──一、二の文献から──

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志段味の爆撃のこと──一、二の文献から──

志段味の自然と歴史に親しむ会・編集室

 名古屋周辺でのアメリカ軍による空襲は、昭和19年12月から本格化しています。当初は軍事施設が目標とされた爆撃から、次第に一般民家を目標とした爆撃になっていき、中志段味に爆弾が落とされた昭和20年はそのピークにあたり、いわゆる「名古屋大空襲」と呼ばれているものの一つにあたります。通常「名古屋大空襲」と言われる場合、被害の規模の大きかった都心部の例が取りあげられることが多いようです。しかし、都心部を離れた周辺の農村部でも等しく爆撃はあったのであり、都心部であれ農村部であれそこに暮らす人々には等しく爆撃の脅威はふりかかっていたことを、改めて見直さなければならないと思います。野田富子さんのお話からは、爆撃後も通して見れば都心部以上にたいへんだった様子もうかがわれます。

 さて、志段味地区の戦災は、『守山市史』によると3件が知られています。

1.昭和19(1944)年12月13日

「またこの日志段味上空にも敵機が飛来したが、人畜に被害はなかった。」

2.昭和20(1945)年3月21日

「20日深夜から未明にかけて、中志段味上寺林に爆弾21個を投下し、12名死亡し、重傷1名、家屋の全焼1戸、全半壊5戸を出した。これは鳥居松工廠を襲撃した余波であった。」

3.昭和20年4月24日

「志段味村大字吉根字下江に焼い弾が投下され、住家5戸を全焼したが、人畜に被災はなかった。」

 本誌で今回取りあげた中志段味の爆撃は、上の2にあたるものと思われますが、野田富子さんを始めとする地元の方々の記憶と、同書での日付が異なっています。地元の方々が一様にして「旧制中学の卒業式の前夜」として記憶されていることから、実際は3月25日の爆撃が正しく、『守山市史』の記載事実に誤りがあるようです。このことは、現名古屋市内での爆撃が3月21日には記録されていないことからもうなずけます。ちなみに3月24日深夜から同25日未明にかけての名古屋への爆撃の全容は、「警戒警報発令時刻:22時25分、空襲警報発令時刻:22時52分、来襲時刻:23時56分、機種:B29爆撃機、機数:130機(日本側資料、アメリカ側資料では226機)、攻撃目標:三菱発動機大幸、投下弾:焼夷弾・爆弾、投下弾トン数:1545トン、被害区:千種・東(市外)、死者:1617人、負傷者:770人、被害戸数:7066戸」という記録され、この年の3月に11回あった空襲のうちの10回目、また全63回の名古屋空襲の第43回目のものでした。(『名古屋大空襲展』図録による)

 志段味に爆弾が投下された地帯は、地元の方々の証言からおおよその場所がわかりますが、まだキチンと現地で地図と照合しながら確かめることができていません。そこで、ここでは、敗戦後の1946~1948年にかけてアメリカ軍が撮影している空中写真に見られる爆弾の落ちた跡を、左の地図に示しておきました。写真が鮮明でないため、一つの爆撃の跡までは正確にわかりませんが、だいたい爆弾の跡が集中している場所を、点線と網目で記しておきました。これによると、爆弾は県道の坂を下りきった寺林の一帯と、段丘の上に落ちています。またこの夜、農村地帯で何の軍事施設もない志段味に爆弾が落とされた理由ははっきりしていませんが、2月例会で野田富子さんが想像として話されたことは、爆撃のあった寺林には、当時としては珍しい総ガラス張りの鶏小屋があって、それにあかりが反射して爆撃目標とされたのではないかとのことでした。

 ところで『守山市史』には、「志段味方面の山林は敵機の誘導地点になっていたらしく、たびたび爆弾を投下されたので、山林内には多数の爆弾のあとを残した」と記されています。山林内の爆弾のあとについては、いまだ確かめてはいませんが、「誘導地点になっていたらしい」ことについては、吉根の河本義孝さんなど地元の方からお話をうかがったことがあります。このことと直接関連はしないものの、同様なことは守山区大森でも言われています。この3月25日には、志段味と同じ農村地帯である大森にも爆撃がありました。これについて「‥‥なぜ米軍機は大森を爆撃したのでしょう。夜間のため目標を誤ったといえばそれまでですが、当時、八竜山に高射砲陣地があり、米軍機はそれをねらったのだという説もあります。高射砲陣地は名古屋周辺にはたくさんありましたが、八竜山のそれは、夜間わざわざ火を燃やして敵をおびき寄せ、名古屋市内の被害を最小限度にくいとめようとした話も」あると言われています。(『矢田川物語』)志段味・大森含めて、こうした事実のあったことの真偽については、まだ確かめてはいません。しかし、『矢田川物語』で「もしこれがほんとうなら大森の人たちは実にひどい目にあわされたというべきでしょう」と言われるようなことは、この志段味についても言えると思われます。中心―名古屋の発展のために、周辺―志段味が「犠牲」になるという構造は、ずっとあるのかも知れません。事実関係をさらに詳しく調べてみる必要はありそうです。

【参考にした本】
・愛知県守山市役所 1963 『守山市史』
・小林元 1980 『矢田川物語』
・朝日新聞社 1985 『名古屋大空襲展』図録


出典:『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第4号、1986年4月15日、11–13ページ。

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